私は十年前まで東京の古い木造アパートで暮らしていましたが、夏の深夜にキッチンで遭遇するあの黒い影への恐怖は、私の精神を常に摩耗させる不快なノイズであり、どれほど掃除を徹底しても壁の隙間から侵入してくる野生の執念に対しては無力感を感じるばかりでした。そんな私が札幌への移住を決めた最大の動機の一つは、恥ずかしながら「北海道にはゴキブリがいない」という噂であり、実際に北の大地で生活を始めてからの十年間、自室で一度もあの影を目撃することなく過ごせている現実は、私にとって何物にも代えがたい「環境的な贅沢」となっています。東京では寝る前にシンクの水分を一滴残らず拭き取り、ゴミ箱を厳重に封印する防衛戦を毎晩繰り返していましたが、北海道の一般家庭ではそのような緊張感を持つ必要がほとんどなく、開け放った窓から涼しい夜風を取り込みながら安眠できる日々は、かつての私からすれば魔法のような世界に感じられます。しかし、移住して数年が経った頃、地元の友人が経営するススキノの飲食店で「実は北海道にもゴキブリはいるんだよ」と教えられ、店内の熱源付近に設置されたトラップに捕まった小さなチャバネゴキブリを見た瞬間に、私は「いない」のではなく「住み分けがなされている」のだという真実を突きつけられました。北海道の厳寒は屋外からの新規侵入を完璧にブロックしてくれますが、一度人為的に建物の中へ運び込まれてしまった個体は、冬の暖房設備という文明の利器を隠れ蓑にして、人間が一生触れることのないブラックボックス領域で命を繋いでいるのです。この事実は、私に住まいの管理に対する新しい視点を与えてくれました。すなわち、北海道での清潔な暮らしは、自然という強力なガードマンに守られている一方で、自分自身の荷物や引っ越しの段ボールといった「物流の隙」をいかに検疫するかという、一点に集約されるのです。あの日以来、私は本州から届く宅配便を玄関先で開封し、段ボールは即座に屋外へ出すという習慣を徹底していますが、これは北の大地が授けてくれた「ゴキブリのいない静寂」という至高の権利を守り抜くための、私なりの敬意の示し方でもあります。不快な羽音に怯えることなく、心からリラックスできる自分のテリトリー。この清潔な空気に包まれて深呼吸をするたびに、私は北海道への移住という決断が正しかったことを再確認し、自然界の掟が作り出したこの美しい境界線に感謝の念を抱かずにはいられません。
東京から移住して知ったゴキブリのいない贅沢